仕入れから戻ると、もう外はすっかり暗い。この季節は、夕方になると、あっという間に霧が出る。通りの明かりも、看板も、みんな滲んで見える。霧越、という名前は、よくできていると思う。
水曜の夕方は、いまも少し落ち着かない。もう長いこと、あの電話は鳴らないのに、体のほうが、覚えてしまっているらしい。
珈琲を一杯だけ淹れて、柱時計を見上げる。今日も、いつものことを、そっとした。…〔つづきをよむ〕
誰にも言えないような、小さなことだ。人に話せば、笑われるか、気味悪がられるかの、どちらかだろう。けれど、それだけが、まだあの人と繋がっているような気がして、どうにもやめられずにいる。
このごろ、水曜の帰りに寄ってくださる若い方がある。会社帰りらしく、いつも鞄が重そうだ。窓際で、ブレンドを一杯。ゆっくり飲んで、帰ってゆかれる。
若い方には、うちの店は退屈だろうと思っていたが、「静かでいいんです」と言ってくださった。ありがたいことだ。マメは早速、その方の膝を狙っている。
めっきり寒くなってきたせいか、マメが一日じゅう私の膝の上から動かない。おかげで、仕込みがちっとも進まない。困った看板猫である。
静かな一日。書くほどのことは、何もない。ただ、水曜の夕方だけは、どうも手が止まる。歳を取ると、昔の癖ばかりが、体に残るものらしい。
長いあいだ、水曜になると決まって電話をくださった方が、遠くへ越されたと、風の便りに聞いた。もう、掛かってはこないのかもしれない。
思えば、あの方が最後に店にお見えになったのも、水曜だった。窓際のいつもの席で、同じ珈琲を、ゆっくり一杯。長っ尻の人ではなかったのに、あの日は、なかなか腰を上げなかった。……いま思えば、あれが、挨拶だったのだろう。
店に、ぽっかりと穴があいたようだ。今日の珈琲は、いつもより苦く感じた。
二月の水曜は、夕方になると冷えこむ。ストーブの前がマメの指定席になって、お客さんが座る場所がない。
今日は夕方、久しぶりに黒電話を磨いた。もう、この電話に掛けてくる人も、ほとんどいないのだが、埃をかぶらせるのは、なんとなく、いやなのだ。